人はいつから歯みがきを始めたのか

誰もが毎日、歯をみがく。この習慣がつくられたのはこの100年のことにすぎません。では、それ以前の人々は歯とどうつきあってきたのでしょう。エピソードでつづる口腔保健前史。

③古代エジプトは歯みがき&口腔ケアの先進地?

ジョセル王が建設したサッカラの階段ピラミッド。ヘジラの墓はこの北西で発見された。
ジョセル王が建設したサッカラの階段ピラミッド。ヘジラの墓はこの北西で発見された。

ファラオに仕える高官が歯科医?

エジプトのサッカラにある階段ピラミッドは、世界最古のピラミッドです。つくられたのは紀元前2650年頃。建造したジョセル王は、大ピラミッドの主として有名なクフ王より100年以上も昔のファラオでした。
このファラオに仕えていた高官の中に、歯科医がいたかもしれません。その人物の名は“ヘジラ”。その根拠は、サッカラのヘジラの墓から出土した杉のパネルです。本人の姿が浮き彫りされていたパネルには、「王の親友」といった肩書きとともに、「最も偉大なる歯科医」と読めるヒエログリフ(古代エジプト文字)が刻まれていたのです。この訳し方には異論もありますが、訳が正しければ、ヘジラは世界で最初の歯科専門医といえそうです。

パピルスに残る歯みがき剤の記録

紀元前1500年頃になると、エジプトには歯みがき剤の記録も現れます。エーベルス・パピルスはそのひとつ。長さが20mもあり、700種もの魔術や治療薬を紹介しているパピルスです。
パピルスによると、粉状の歯みがき剤は、乳香(にゅうこう)、緑粘土、緑青(ろくしょう)でつくり、練り状のものは緑粘土、緑青、火打ち石の粉末、蜂蜜、それにビンロウジュの実の粉末でつくるとあります。乳香は香りづけ、緑粘土や火打ち石の粉末は研磨剤、緑青は殺菌作用、蜂蜜は甘みと粘結剤というように、原材料のそれぞれに歯みがき剤としての効果が認められます。
古代エジプト人は宗教的な決まり事として衛生に気をつかい、神官は毎朝、体を洗い、口の中を清潔にしたといいます。その時に歯みがき剤を使う習慣があったのかもしれません。
ヘロドトスの『歴史』によれば、紀元前5世紀のエジプトは、医術が目、頭、腹部、歯などの専門別に分かれ、医者だらけだったとか。世界で最初に歯科専門医が誕生しても不思議はありませんね。

④白い歯は古代ローマ人のステイタスシンボル

身だしなみを整える古代ローマの女性。キューピットに鏡を持たせている。ポンペイの秘儀荘の壁画。
身だしなみを整える古代ローマの女性。キューピットに鏡を持たせている。ポンペイの秘儀荘の壁画。

歯の掃除は奴隷まかせ

広大な世界帝国を築いた古代ローマでは、市民が毎日のように公衆浴場に通い、化粧や衣装などのおしゃれにも気をつかいました。そして、市民の間では、白い歯が美の条件となりました。
手入れを怠れば、歯には歯垢(しこう)が溜まり、黄ばんでしまいます。歯を白く保つことができたのは、奴隷に歯の手入れをさせていた、一部の裕福な人々に限られていました。だから白い歯はステイタスシンボル。その歯を見せようとして、いつも笑っている人物を風刺する文書も残っています。
そうした中、医師たちはさまざまな歯みがき剤を考え出しました。たとえば、動物の骨や卵の殻を焼いた灰に甘松香(かんしょうこう)やミルラ(没薬)を混ぜたもの。灰には歯垢や着色汚れを取る研磨作用があったと思われます。漢方薬の一種である甘松香や、植物の樹脂からつくられるミルラには鎮静作用があり、よい香りがします。
初代皇帝アウグストゥスの姉・小オクタヴィアは、その美徳で慕われた女性ですが、愛用していた歯みがき剤には塩が使われています。最近の歯みがき剤と共通するところがあったようです。

怪しい歯みがき剤も横行

一方、かなり怪しげな方法もありました。
焼いた干しイチジクの粉に蜂蜜を混ぜたものは、歯の黒ずみにこすりつける漂白剤。若い女性の尿で口をすすぐと歯が白くなるとも考えられていました。確かに尿素には漂白作用がありますが……。
『博物誌』を著した大プリニウスは、歯を丈夫にするために、羊のしっぽについた汚物を使い、爪楊枝としてネズミの頭の尖った骨や、満月の夜に捕まえたトカゲの前足の骨を使うと紹介しています。偉大な博物学者が書き残したことですが、これで歯が本当に丈夫になったでしょうか。試してみるには、かなりの勇気が必要です。