歯みがき習慣がつくられた100年

歯みがき習慣が根付くまでには歯科医師、行政、企業の力を結集した粘り強い取り組みがありました。「むし歯撲滅」から「健康寿命の延伸」へ。目標も時代とともに変化しています。その歩みをたどってみましょう。

⑨子どもの歯を守れ!学校が歯の健康の主役に

大正時代の学校歯科診療室の風景
大正時代の学校歯科診療室の風景

史上最大の学校巡回作戦

子どもたちの歯を守るために学校が果たした役割は、とても大きなものでした。大正時代には、地元の歯科医師と連携して、学校で検診や治療を行う学校も出てきました。昭和になるとこうした活動が活発になり、戦後さらに飛躍をとげます。
1946(昭和21)年、歯科医師と看護婦が日本中のすべての小学校を巡回して、全児童の歯科検診を行うという壮大な計画が実行されました。戦後間もない当時、学校保健活動もほとんど機能しない状態で、文部省は、学校の保健管理体制の立て直しを急ぎ、「学校歯科予防施設の振興について」という通達を発令したのです。これは日本では公衆衛生史上例のない大規模なもので、全国で約300万人もの児童の健診が行われました。
その後、国から各自治体に主体が移りますが、それぞれ独自の巡回健診を続行していきます。東京都は大型の学校歯科巡回自動車を導入、米国から入ってきたばかりのフッ素局所塗布の普及にも大いに貢献しました。

学校表彰でむし歯半減を達成

一方、日本学校歯科医会は、当時、子どもたちのむし歯の90%が未処置のまま放置されている状況だったことから「学童むし歯半減運動」に取り組みます。5年間で未処置のむし歯を半減させる具体的な計画を立て、全国に展開しました。この計画は学校保健行政と合致していたため、文部省も通達を出すなどして、側面からこの運動を支援しました。
さらに、日本学校歯科医会は、1960(昭和35)年から「全日本よい歯の学校表彰」を開始します。学校単位でむし歯半減に取り組んでもらえるように、各都道府県の学校歯科医会や教育委員会を通じて各学校に「全日本よい歯の学校表彰調査票」を配布し、むし歯の半減を達成できた学校を表彰することにしました。
こうしたさまざまな取り組みが、子どものむし歯を減らすことにつながっていったのです。

⑩新しい仕事に燃えた女性たち 新資格・歯科衛生士の養成

「東洋女子歯科厚生学校」で学ぶ歯科衛生士たち
「東洋女子歯科厚生学校」で学ぶ歯科衛生士たち

きっかけはGHQの衛生活動

歯科医院に行くと、歯科医師とは別に歯科衛生士がいて、歯石の除去や歯のみがき方のアドバイスをしてくれます。この歯科衛生士という仕事はどのように生まれたのか、歴史を振り返ってみましょう。
終戦後の日本は、多くの衛生問題を抱えていました。当時日本を間接統治した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、衛生状態改善のため1947(昭和22)年に「保健所法」を改正。そのとき大幅に拡大された保健所業務の中に、初めて歯科衛生活動が加えられました。
保健所はさっそく、子どもたちのむし歯の増加防止対策を推し進めます。口腔や歯の清掃、フッ素塗布、早期治療などに取り組み、これが戦後の口腔保健活動の始まりとなりました。
こうした活動は、当初、保健婦が行っていましたが、仕事が増えるに連れて人手が足りなくなり、「歯科衛生士」の養成が検討されました。

養成学校が続々開校

はじめに歯科衛生士の養成を担ったのは、歯科医師のいる全国5カ所の保健所でした。ただし、関東地区だけは私学に委託され、東洋女子歯科医学専門学校(現・東洋学園大学)の理事長を務めた宇田愛が、初の歯科衛生士養成機関・東洋女子歯科厚生学校を開校。さらに、東京歯科大学歯科衛生士学校、日本女子歯科厚生学校、東京医科歯科大学歯学部付属歯科衛生士学校が相次いで開校し、1950(昭和25)年、ついに、日本初の公的な歯科衛生士が誕生したのです。

燃える歯科衛生士たち

歯科衛生士という新しい仕事を担ったのは、若い女性たちでした。希望に燃える彼女たちは、保健所で働くだけでなく、自らの地位確立へ向けて日本歯科衛生士会を設立しましたが、経済力も運営力も十分ではありません。そこでサポートを買って出たのが、当時のライオン歯磨口腔衛生部長、野口俊雄でした。
その後もライオン歯磨は歯科衛生士を支援する教育活動に熱心に取り組み、1954(昭和29) 年には「全国歯科衛生士指導講習会」を開催。全国28都道府県の歯科衛生士や指導関係者141名が参加し、誕生したばかりの歯科衛生士の質的向上に大きく貢献したのです。