歯みがき習慣がつくられた100年

歯みがき習慣が根付くまでには歯科医師、行政、企業の力を結集した粘り強い取り組みがありました。「むし歯撲滅」から「健康寿命の延伸」へ。目標も時代とともに変化しています。その歩みをたどってみましょう。

①米国人歯科医師、明治維新の横浜に上陸

横浜を拠点に活動した歯科医師、W・C・イーストレーキ
横浜を拠点に活動した歯科医師、W・C・イーストレーキ

歯科医師は海の向こうからやって来た

私たちは、歯が痛くなったら歯科医師に診てもらいます。しかし、明治時代の初めまで、日本に歯科医師はいませんでした。では、歯が痛い人はどうしていたのかというと、漢方医の中の口中医や、義歯をつくる入歯師、抜歯師などの職人たちが、科学的な知識の乏しいまま、独自の経験則で治療を行っていたようです。
近代的な歯科診療技術は、海の向こうからやってきました。1859(安政6)年に横浜港が開港すると、当時、世界最先端の歯科診療技術を誇っていた米国から、歯科医師たちが訪れるようになりました。
最初にやって来たのは、米国ニュージャージー州で歯科医師をしていたW・C・イーストレーキです。26歳のイーストレーキは、横浜に居留する外国人貿易商を相手に開業するつもりで、1865年(慶応元)年に初来日しました。ところが、まだ居留する外国人が少なかったため、日本への定住をあきらめます。そして、香港を拠点として、たびたび横浜に出張診療にやって来るようになりました。

待たれていた歯科医師

その後も数人の外国人歯科医師が横浜に短期滞在しましたが、1870(明治3)年には、米国人セント・J・エリオットが正式な歯科診療所を横浜に開きました。さらにフランス人アレキサンドル、米国人H・M・パーキンスも相次いで横浜で開業し、多くの日本人が初めて西洋の歯科診療に接することになりました。また、彼らの技術を習得するために弟子入りする日本人も現れて、最新の歯科医療技術が徐々に広まっていきました。
明治時代、むし歯に悩む人は増えていました。人々の食生活が大きく変化し、かつての硬く、冷たい食べ物から、温かく、軟らかく、甘い物へと変わったことが、むし歯を増やす大きな原因になっていました。こうした時代の変化を背景に、近代的な技術を持つ歯科医師の登場が待たれていたというわけです。

②日本の歯科医療をリードした2人の先駆者

日本人の歯科医師第1号、小幡英之助
日本人の歯科医師第1号、小幡英之助
私塾をつくって歯科医師の育成に努めた高山紀斎
私塾をつくって歯科医師の育成に努めた高山紀斎

初の国家試験に合格した小幡英之助

近代的な歯科医療技術は西洋からやってきました。では、日本人の歯科医師は、いつ、どのようにして現れたのでしょう。
それは、明治時代の初め、欧米の歯科医師に弟子入りして歯科医療技術を学んだ人たちの中から現れました。トップランナーの名は小幡英之助。大分県出身の小幡は、20歳のときに上京して、同郷の福澤諭吉の慶應義塾大学で英語を学びました。その後、知人にすすめられて、横浜で歯科診療所を開いていた米国人セント・J・エリオットに弟子入りし、歯科医師の道を歩み始めます。
そのころ、国の近代化を急いでいた明治政府は、西洋医学をいち早く取り入れようと、新しい医療制度づくりにとりかかっていました。この制度では、歯科、産科、眼科、整骨科なども医師と認め、1875(明治8)年に西洋医学を基本とした医術開業試験を開始しました。小幡英之助はこの試験の「歯科」を受験し、日本人の歯科医師第1号になったのです。
免許取得後は、東京の京橋で開業。後進の指導にも力を尽くし、日本人に合わせた治療椅子の開発や西洋歯科医術で高い評価を得ました。

米国で学んだ高山紀斎

小幡と同様、慶應義塾大学で英語を学んだ後、歯科医師になった人物に、高山紀斎がいます。高山は、米国への語学留学中に受けた歯科治療に感銘を受け、カリフォルニア州で米国人歯科医師バンデンバーグに師事して、歯科医術を習得しました。帰国後、医業開業免許を取得し、1878(明治11)年に、東京・銀座で開業しました。
その後、歯科医術開業試験を受験するための私塾「高山歯科医学院」を設立し、歯科医師の育成に務めました。こうした先駆者たちのおかげで、私たちは近代的な歯科治療を受けられるようになったのです。